啐啄同時とは

啐啄同時 そったくどうじ

         僧、鏡清に問う、学人啐す、請う師、啄せよ
         清云く、還って活くることを得るや
         僧云く、もし活せずんば、人に怪笑せられん
         清云く、また是れ草裏の漢
                          碧巌録(へきがんろく)

(学僧)
   「私は十分に悟りの機が熟しております、私は今まさに自分の殻を破って
  悟ろうとしています、どうぞ先生、外からつついてください」といったのです。

(鏡清禅師)
  「つついてやってもいいが、本当のおまえが生まれてくるのか」と。

(学僧)
  「私は、もし悟れなかったら世間に笑われます」といったので、

(鏡清禅師)
  「この煩悩まみれのたわけものめが」と、一喝された。

鏡清禅師とは啐啄の機をもって修行者を指導されたと伝えられています。
鏡清禅師と学僧の問答として公案「鏡清啐啄機」が碧巌録(へきがんろく)にあります。



「啐」と「啄」
卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛 がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外か ら殻を コツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が 外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てく るのです。
両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐 啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の 命があ ぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険 な一瞬であり啐啄は同時でなくてはなりません。

このように弟子をヒナ鳥に、師匠を親鳥にたとえ、師匠の悟らせようとする働き と、弟子の悟ろうとする働きが一致した時が大悟徹底であるというもの です。
親子であっても、卵の殻を内側から子も無心につつき、親鳥も外側から無心でつ つく、互いに意識せず、「啐啄同時」というのは自然にそうなってい るもので す。相談しながら同時につっついたりするものではありません、啐啄同時を誤解 してはならないことを鏡清禅師は教えられたのです。